生物多様性科学研究センターの兼任研究員であり、生態学者として自然界における微生物のふるまいを数理モデルで探究する三木
健教授(先端理工学部)。そして、仏教学者として仏教思想から人の生と死を見つめる野呂
靖教授(心理学部)。一見異なる領域に見える両者の研究は、「多様性」「つながり」「生と死」という普遍的なテーマで重なります。
本対談では、現代社会に生きる私たちが抱える「どう生きるか」「他者や自然とどう関わるか」という根源的な問いを、科学と仏教の視点を往復しながら照らします。
※発言は2025年10月取材時点のものです。
写真左:三木 健教授(先端理工学部)、
写真右:野呂
靖教授(心理学部)。以下、敬称略。
大きな声だけに、耳を傾けてはいけない。
三木:今日は先端理工学部がある滋賀の瀬田キャンパスから、先生の研究拠点でもある京都の大宮キャンパスにやって来ました。初対面ですね。
野呂:おいくつですか? 私は1979年生まれです。
三木:1978年生まれですので同世代ですね。簡単に自己紹介をしますと、私は「生態学を学びたい」と考えて神奈川県から京都大学へ進み、大学4年生から琵琶湖のほとりにある京都大学生態学研究センターで活動していました。その後は10年ほど国立台湾大学へ単身赴任をしまして、コンピューターシミュレーションと実測データを用いた統計モデルを融合する研究スタイルを吸収。龍谷大学とご縁をいただき滋賀に帰ってきました。
野呂:私は今でこそ仏教を研究していますが、高校時代は探検家をめざしていました。三木先生は「Academic Doors」で「インディ・ジョーンズに憧れた」と語られていましたが、実は私も同じなんです。特に「遺跡発掘に携わりたい」と思い、当時中央アジアの仏教遺跡を発掘調査している先生がいると聞いた龍谷大学文学部の仏教学科に進みました。
しかし、文学部の学びの中で仏教の思想のおもしろさに気づいたんですね。特に親鸞と弟子の対話が記された『歎異抄』という書物を読んで感銘受けたことから「仏教っていいな」と真剣に向き合うようになりました。現在は日本の古い寺院などにおさめられた文献を発掘して、現代ではあまり知られていない「名もなき思想家たち」の言説を現代に甦らせるということをしています。
三木:ある意味で夢を叶えたのですね。私が生態学者をめざした最初のきっかけは、ジブリの映画「風の谷のナウシカ」でした。ナウシカには粘菌が出てきますが、それが直接の影響ではないものの、微生物(細菌)集団を研究対象としています。というのも微生物は生態系を支える存在で、微生物からしか生命体は始まりません。つまり微生物を研究するということは、宇宙全体の生命に対する理解になる。そこに面白さを感じています。
野呂:ナウシカが出発点とのことですが、先生の研究は、テクノロジーを使って自然をコントロールしようという方向性ですよね?
三木:そうです。「環境問題もテクノロジーでなんとかなるのでは」と思い始めた中学の終わり頃に原作を読みましたら、「自然をコントロールすることが人間の幸せにつながるとしても、認めない」とナウシカの意見が変わっていて衝撃を受けました。だから今の私は、ナウシカの敵になってしまったなと。
野呂:私はジブリ作品だと「平成狸合戦ぽんぽこ」が一番好きなのですが、あれは人間と狸との共生がうまくいかないストーリーだと考えています。一般的に「自然との共生」はとても良いことだと捉えられていますが、弱い狸、つまり声を上げられない、上手く生きていけない者にとっては、共生はとてもハードルが高いものだと語っている映画だと。
三木:たしかに自然環境と人間社会のあり方について考えさせられる作品でしたね。今でこそ「生物多様性」という言葉が登場して、地域の自然を構成するものにも社会の目が向くようになってきましたが…。
野呂:私の研究に引きつけて語りますと、仏教の歴史研究は空海や最澄、親鸞などのスーパースターの研究が王道です。しかし私はどちらかというと、彼らの周りにいた名もなき思想家たちの多様な言説を拾いたい。それを総合的に見ていくことで、全く違った歴史像が見えてくるはずだという関心を持っています。つまり「思想的多様性」とでも言いますか、特定の思想で全てを構成するのではなく、多様な言説をつないでいくことで、新しい歴史が立ち上がってくるはずだと。
三木:なるほど。歴史という点から語ると、私は科学者も歴史を意識するべきだと考えています。なぜなら生態学は、欧米列強及び日本の植民地開発の歴史と切り離せない学問領域だからです。そうした負の歴史を背負っていることを意識し、研究が自然や社会に暴力的な影響を与えないようにしなければと自戒しています。
また生物学はなまじ目に見える世界を研究対象にしているため、人間の認識とは無関係に「現実世界」というものが唯一存在すると考えがちです。このように「唯一不変の現実」といった素朴な考え方をしないよう、科学哲学を学ぶことも大切ですね。
私たちは「何かいい話」を越えていけるのか?
三木:生物多様性科学研究センターでは今、生物多様性情報の可視化と、その情報に基づく地元企業や行政に対するインセンティブの創出を進め、保全行動にヒトや資金が継続的に流れるシステムの構築をめざしています。その一環として私も、滋賀の企業や金融機関、行政、市民団体、農林水産事業者などとの「生物多様性ステークホルダー会議」の発足から関わり、地域の保全活動がうまく回るような仕組みを作ろうとしています。
しかし、生物多様性に向けた保全行動に対する社会的価値が未だ低いのが現状です。そもそも「生物多様性をなぜ守らないといけないのか」ということが、社会の中で十分に共有されていません。生物多様性は生態系という大きな枠組みでの話ですので、イメージしにくいのでしょう。特定の絶滅危惧種の保護という話なら一般の理解を得やすいのですが…。
野呂:兵庫県豊岡市のコウノトリ保全の成功例のように、一度は野生個体群が絶滅したものの、最後の生息地で人工繁殖、そして自然繁殖に成功してきたというストーリーは強い訴求力がありますね。
三木:私たち研究メンバーは、エビデンスに基づき生物多様性への影響を判断する仕組みを作り、ステークホルダーを通じて市民レベルの保全活動へとつなげようとしています。私の専門は「定量生態学」と言って、数理モデルを用いて、人間が自然に手を加えたときにどれだけ生態系や環境にリスクがあるかを、具体的な数値で予測するものです。その知見を活かし、ある産学連携プロジェクトでは、「この地域にいる微生物群は、ここまでの環境劣化に耐えて回復する力がある」ということを数値的に診断・評価する指標を検討しています。
結果、数字で物事を判断することに慣れている金融機関や企業の管理部門に属するメンバーからは理解を得られそうな感触を得ているのですが、多くの人には「数字だけで判断するのは冷たい」や「守る対象の顔が見えない」という印象を与えるのではないかと危惧しています…。
野呂:20世紀の環境保護や動物愛護のイメージから、人々の意識が抜け出せていないのかもしれませんね。
三木:「微生物なんていなくていい」と皆さん思うかもしれませんが、地球上の微生物が全滅したら、おそらく1週間ほどで地球上の生物は絶滅します。だからこそ微生物を含めての生物多様性であるわけで、それを科学的に示そうとすると数字になるのですが…。
野呂:目で見えないものはなかなか伝わりにくいですね。宗教も見えない世界を扱っていますので、学生に伝えるのがとても難しいです。ただ、何を伝える方法として、私たち人間を含めた物語を作っていくのは基本だと思います。仏教の輪廻や浄土といった思想が定着したのも、「死は終わりではなく、新たな誕生である」というストーリーを仏教が伝え続けたことで、人々の間にリアリティが徐々に芽生えてきたと言えるでしょう。
微生物が我々の人生にどう関わっていくのかということを、物語で伝えられていくと良いのかなと思うのですが…。
三木:仏教はサンスクリット語や中国語の原典を踏まえて、今の世の中の悩みに応じた説法をしているのですよね。しかしそうすると、厳密性が失われませんか?
野呂:現代の人々が都合よく仏教思想を理解したり、加工したりする危険性は常にありますね。ただ、仏教は現実の人々のリアルな苦悩に向き合い続けてきたという歴史ももっています。変わってはいけない部分と、フレキシブルに時代に応じていく部分のバランスをどうとるかがとても大切だと思います。
三木:科学者としては、科学的事実をそのまま説明するのは問題ないのですが、物語化する場合には誤解を生むような暴力性を孕まない範囲でなければ危険だと感じます。やはり発信力のある人は、暴力的な物語を語りがちです。それが人々の心に訴えかけて生物多様性保全への動きにつながる程度なら良いのですが、影響力が強すぎるがあまり政策などに反映されてしまうと困ったことになります。
野呂:たしかに今、多様性や共生といったつながりをイメージする言葉が社会でもてはやされていますが、傾向として「全体のための多様性」や「全体の幸せのためにみんながつながろう」ということばかりが発信されてはいないかと懸念しています。それはとても無責任で危険を孕みます。個人の主体的な生き方がとても大事になる中で、全体主義的な方向に誘導されかねないですね。
私は仏教の華厳思想を研究しており、これは簡単に言うと「全てのものは個性をたもちつつも無限につながり合っている」という思想です。これ自体はとてもユニークで深い哲学思想ですが、太平洋戦争中には日本を中心としたアジア諸国の連携という「大東亜共栄圏」の理念を理論的に正当化・合理化するために利用されることもありました。
三木:宗教の思想が政治的に利用されたという負の歴史があるのですね。
野呂:こうした史実からも、私たちは「何かいい話」を超えていかないといけないし、自分たちが研究している思想や理論が、意図しない形で利用された時の功罪をきちんと見ていく必要があります。
龍谷大学は「仏教SDGs」や「ネイチャーボジティブ宣言」を発信しており、それに関連したスローガンには人々を惹きつけるものがあるように感じます。私たち研究者はそうしたスローガンが誤解されていないか気をつけるとともに、自らもまた都合のよい使い方をしたり振り回されたりしていないか常に省みる必要があります。そのうえで自分の研究をしっかりと社会に開き、つなげていく。本当に難しいですがその営みが大事だと感じています。
見えないことを、一緒に見えるように考えていく。
野呂:今の日本では自殺(自死)がタブー視されており、「死にたい」と思う気持ちを言葉にすると、ポジティブな言葉によって否定されてしまいます。しかし人生において「死にたい」と思うことは、誰にでもあることですよ。そもそも生と死はセットになっているもので、「共生」は「共死」でもある。それなのに死を簡単に口に出せない社会は非常におかしいと考えた私は、2007年に電話相談の活動をされている方のところに飛び込みました。
私はそこで、「誰しも死にたいと思うことがある。それは決して特別なことじゃない」と、自殺を考えている人を受け止めることが、結果的に自殺を止めることにつながると学びました。またその「声にならない声をしっかりと聞く」姿勢に感銘を受け、自身でも2010年に京都自死・自殺相談センター「Sotto」を仲間と立ち上げました。現在もメールやチャット、電話を通じて、生きづらさや死にたいほどの悩みを抱える方を支える活動を続けています。
三木:仏教には輪廻という思想がありますね。私たちはいつか死ぬけれど、阿弥陀如来が住む極楽浄土という悟りの世界に生まれていくんだというのは、ある意味で循環ですが、生態学の考え方とはだいぶ違います。この輪廻は、人間だけが対象なのですか?
野呂:いいえ、仏教では人間とそれ以外の生物とを基本的には区別しません。動物や、天人といった神話的な存在も含めて生命はめぐっていくと考えます。
…ただしね! 仏教には現実主義なところもありまして、植物だけは輪廻の対象外なのですよ。仏教は殺生を厳禁している宗教ですので、植物まで生きているものと見なすと、我々は殺生することになってしまう。そうすると食べるものがなくなってしまうからという。そんな考え方も仏教の歴史のなかでは登場します。
三木:ははは、そこは現実的なんですね。しかし輪廻を認めているのに殺生はダメというのは不思議ですね。私は自分の研究を思想にフィードバックするのを戒めているのですが、とはいえ生態系では殺されるのは必然です。食べて食べられる循環がうまく回り続けることによって、生態系が上手くいくからです。
野呂:植物だけを輪廻から除外したというのはご都合主義的にきこえてしまうのですが、「生きる以上何かを食べなければならない」という生命の本質を踏まえたものだと私はとらえています。人間は生きる以上、なにかを傷つけ、殺生せざるをえないですね。しかし、殺生を正当化して好きなものを好きなだけ食べるのではなく、食べて循環していく命を見つめ、そこに慚愧や感謝の思いを感じながら生きていくことを大切にしていたのではと考えています。
三木:動植物を食べる/食べないといった議論が起こるのは、人間が食物連鎖のトップにいるからこその発想であって、もし仮に人間が食物連鎖の真ん中あたりにいる世界だったら、仏教はどういう宗教になっていたのでしょうね。「全てはつながっている」などと言っていられたのでしょうか?
野呂:それでも「つながって生きている」とかは言いそうですね、ふふ。
三木:自然科学領域では環境保全を考える上で、個体ではなく個体群という一歩上の集団を対象とします。つまり集団を守るために、個を犠牲にすることをナイーブに受け入れているわけです。しかし人間と同じように動物個体に価値を置く側の人からすると、自然科学の考え方は冷たく見えるのでしょうね。
生物多様性保全と、動植物の権利や生命倫理の問題のすりあわせが必要ですね。
野呂:これは短期的な解決は難しいでしょうね。ですが自分の行動が未来世代のよき祖先としての振る舞いなのかを考える、「よき祖先になる」という思想があります。つまり目に見えない未来の他者の視点で、自分の行動を見てみようという考え方ですね。
「いま目に見えないから関係ない」と切り捨てるのではなく、長期的価値を見出すために「目に見えないことをイメージする」物語のような枠組みがあると、本当の価値が見出されてくるかもしれません。
三木:イメージ…それは想像の方がいいのか、ホログラムのように具体的に見えるものがあった方がいいのか…。
野呂:仏像ぐらいの抽象度で良いのかもしれません。「見えないことを一緒に見えるように考えていこう」というのは、人間にしかできないことだと思います。大切なのは「想像力」ですね! 私たちは多様な世界をつなげて、大きな世界を構築できるのではないかと思っています。
三木:宗教的想像力…自然科学者の苦手な部分ですね。龍谷大学では全学部の1年生で教養教育科目の「仏教の思想」が必修ですが、あの科目は学びの進んだ4年生で必修とすべきですね。
野呂:同感です。1年生では理解が難しい部分もあると思います。
今日は同年代だからこその格式ばらない、本音で語り合える対談ができましたね。
三木:こんな展開になるとは思っていませんでしたが面白かったです。ありがとうございました。
プロフィール
三木 健(Takeshi Miki)
龍谷大学先端理工学部 環境科学課程・教授
2001年、京都大学理学研究科進学、京都大学生態学研究センターで研究。2006年3月、博士(理学)取得。2008年8月〜2018年7月には、国立台湾大学海洋研究所で研究室を主催し教育・研究に従事。2018年8月より龍谷大学へ。専門は、定量生態学、理論生態学。人間が自然に手を加えたときに、どれだけ生態系や環境にリスクがあるかを具体的な数値として予測する方法を研究する学問領域を切り拓いている。生物多様性科学研究センター・兼任研究員。
野呂 靖(Sei Noro)
龍谷大学心理学部・教授
花園大学非常勤講師、浄土真宗本願寺派総合研究所研究員などを経て現職。博士(文学)。専門は仏教学(日本仏教・華厳思想)。浄土真宗本願寺派僧侶。著書に『東アジア仏教思想史の構築』(共編著、法蔵館、2023年)、『高山寺本明恵上人夢記訳注』(共編著、勉誠社、2025年)など多数。2010年、有志とともにNPO法人京都自死・自殺相談センターsottoを立ち上げ、現在は理事として活動を行っている。現在、龍谷大学ボランティア・NPOセンター長を兼務。